インキュナブラコレクション
本書は世界初の英語による活版印刷本であるが、イギリスではなく現在はベルギーの水の都ブルージュで作られた。英国最初の印刷業者ウィリアム・キャクストン(1422頃―1492)は、ロンドンで毛織物商人として修行した後、ブルゴーニュ公国で英国との交易や外交に30年も活躍した。
1468年に嫁いできたマーガレット公爵夫人は、英王エドワード4世の妹だった。本書の序文によれば、公爵夫人に依頼されたフランス語版『トロイ歴史集成』の英訳は遅々と進まず、「書いていると、ペンは擦り減り、手は疲れて滑らかに動かず、白紙を見つめすぎて目はくらみ…」という状態に陥ったので、キャクストンは活版印刷術を学び、一挙に多くの部数を出そうとしたという。彼の死後、弟子のウィンキン・ド・ウォードがバルトロマエウス・アングリクス著『物性論』の英語版を出版したさい、あとがきで回想したところによれば、キャクストンはケルンで印刷技術を習得したらしい。ブルージュからケルンに亡命した1472年に、キャクストンは、そこで『物性論』を印刷していたヨハン・フェルデナーに、資金援助をしながら印刷術を学び、翌年ブルージュに戻って印刷工房を開設、『トロイ歴史集成』英訳版を出版した。
本書の内容はその標題とは異なり、第一書はギリシャ神話、第二書はヘラクレス神話、第三書はトロイの包囲と陥落の物語からなる。中世ロマンスを古典神話に接木したような構成をもつ、ルネサンス独特の文学ジャンルに属する。ブルゴーニュ公国の伝説的な起源がヘラクレスやトロイの伝説に依拠していたし、マーガレットの嫁入りも「新たなヘレンの到来」と歓迎されたので、キャクストンの出版も時宜を得たものだった。当時イギリスと関係の深かったブルゴーニュに住むイギリス人読者を想定して英語版を出版したキャクストンは、その直後フランス語版も上梓した。
『トロイ歴史集成』英語版の現存部数は20部ほどで、完本はニューヨークのピアポント・モーガン図書館に収蔵されるのみである。慶應本は本文15葉を欠いているが、1646年以降ずっとロンドンのサイオン・コレッジに所蔵されていたため、18世紀以降に起こった古書蒐集熱の影響を受けることがなかった。このため、化学溶剤で「洗ったり」、製本のために不必要な圧力をかけた形跡が見られない。キャクストン時代の印圧状況を如実にあらわす本書の唯一の現存本だといってよい。そのため慶應本は、ブルージュにおけるキャクストン工房の印刷工程を窺い知るための、書誌学や印刷史の重要な研究資料である。
(TT)
(松田隆美編『Mostly British: Manuscripts and Early Printed Materials from Classical Rome to Renaissance England in the Collection of Keio University Library / ローマ帝国からイギリス・ルネサンスへ―慶應義塾図書館蔵稀覯書展』(東京:慶應義塾大学, 2001), p. 111より転載。)
詳細情報
- Author
- Lefèvre, Raoul
- Place of Publication
- [Bruges]
- Printer
- [William Caxton]
- Format
-
fº
- Date of Publication
- [1473?]
- Binding
-
Antique half morocco and wooden boards, gilt title on the spine.
- Bibliographical Notes
-
336 of 352 leaves, wanting a10, b1-3, b9-10, and KK10; blank space for initials, sometimes filled in by hand; some early marginalia notes.
- ISTC
- il00117000
- Reference
- HC 7048, BMC IX 129, IJL2 247, T22, MB16
- Shelfmark
- 120X@1161@1
- Acquisition Year
- 1998
- Provenance
-
1. MS exlibris of Matthew Forster, 1646 (fol. 14). 2. Gift to Sion College by Matthew Forster, son of Captain Matthew Forster, merchant of London, 1646. 3. Sion College Library, Sotheby's 13 June 1977, lot 36. 4. H. P. Kraus Catalogue 200, 141. (Cf. Mostly British, p. 107).