デジタルで読む福澤諭吉
この書の成立については「福翁自伝」に次のように記している。
明治十年西南の戦争も片付て後、世の中は静になつて、人間が却て無事に苦しむと云ふとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあらう、随分面白からうと思て、ソレカラ其論説を起草して、マダ其時には時事新報と云ふものはなかつたから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人に其原稿を見せて、「此論説は新聞の社説として出されるなら、出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違ひない。但し此草稿のままに印刷すると、文章の癖が見えて福沢の筆と云ふことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思ふ通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云ふと、年の若い元気の宜い藤田箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に載せました。当時世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、此社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になつて仕舞ふやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のやうに社説欄内を填めて、又藤田箕浦が筆を加へて東京の同業者を煽動するやうに書立てて、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二三ケ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなつて来て、遂には例の地方有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るやうな騒ぎになつて来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令ひ文明進歩の方針とは云ひながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬ共物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになつて、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するやうなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあつて、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、其後とても毎度同様の主義を唱へた人も多い。ソンナ事が深い永い原因に違ひはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々哺々数千言、噛んでくくめるやうに言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上って来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になつて居ませう。其社説の年月を忘れたから、先達箕浦に面会、昔話をして新聞を尋ねて見れば、同人もチャント覚えて居て、其後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二月の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合つて居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になつたと思へば自分でも可笑しい。 「福翁自伝」には八月十目頃までとあるが、正確には明治十二年七月二十九日から八月十四日まで十回に亙って郵便報知新聞の社説として発表せられた。その前、七月二十八日の紙上に「国会論之緒言」が掲載され、その翌日から本文が連載され、本文が終ってから四日の後すなわち八月十八日の紙上に「国会論に就て大方の教を乞ふ」と題する社説が載り、間もなく緒言と本文とを併せて一冊の単行文が刊行された。
単行本は四六判洋紙活版刷、緒言六頁、本文七十九頁、奥附一丁、淡黄褐色洋紙の表紙をつけ、「藤田茂吉箕浦勝人述/ 国会論前編/ 明治十二年八月出版」の文字を三行に配列し、飾り枠で囲った意匠である。奥附には「明治十二年八月二十九日御届/編輯兼出版人東京芝区南佐久間町二丁目十三番地藤田茂吉/同同町十四番地箕浦勝人/発莞書肆同日本橋区薬研堀町報知社支店同日本橋通三丁目丸屋善七」と記してある。緒言も本文も全部四号活字で印刷されてある。
この単行本が発売当時どのくらい世に行われたかは明かでないが、今日その版本が非常な稀観書になっているのを見ると、殆んど版を重ねることがなかったのではないかと思われる。
又単行本の標題が「国会論 前編」となっているのを見ると、世上の反響を見て更らに後編を起草する考えがあったもののように察せられる。現に福沢はその続編を書いていた。これが後に「時事小言」と題する単行本となって出版されたものである。
なお、単行本と郵便報知新聞掲載のものとの間には、字句の上にかなりの相違がある。新聞掲載に当り福沢の筆癖を消すために藤田箕浦等が筆を加えたものを、単行本上梓の際に福沢が更らに訂正加筆したものと思われる。
詳細情報
- タイトル
-
國會論
- ヨミ
- コッカイロン
- 別タイトル
-
On national diet
国会論 - 出版地
- 東京
- 出版者
- 慶應義塾蔵版
- 出版年
- 1879
- 識別番号
-
福澤関係文書(マイクロフィルム版)分類: F7 A32
請求記号: 11P@56@1